2014年2月17日月曜日

SF最後の週末

 Kさんは土曜日の朝に帰国の途につかれましたが、私とUさんは2日間ほど延泊し、SF観光を楽しみました。Uさんは準備がよく、しかも友人がおられたため、土曜日はNapaへワイン試飲の旅へ、日曜日は悪名高い元囚人の島、Alcatraz(アルカトラズ島)へ観光に行かれました。特にAlcatrazには私も行きたかったのですが、予約しようとしたら満席でした。Alcatrazは最低1週間前には予約しなければならないようです(繁忙期はもっと早く)。
 ということで、私の方は、土曜日は午前中はデスクワークをして、午後は別グループに参加していた新聞社のNさんと一緒に中華街を散策。夕方はいったんホテルに戻り、ひとりで中国系の新年祭を見物しました。
 旧暦の元旦は1月末だったと思われ、なぜ2月15日に新年祭が開かれたのか不明ですが、中国系企業や経済団体が中心となり、地元のさまざまな団体やMcDonald's、AT&Tなど大企業も加わって、盛大なパレードが行われました。パレードは、中華色ばかりかと思いきや、大学のブラスバンドなどもあり、人種も明らかに白人や黒人もおり(なかにはフィリピン系と思われる美女の集団がチャイナドレスに身を包み手を振るなど、ちょっと解せない場面もありました)、中国らしさを維持しつつも、SF市民みんなが祝ってくれていると印象づける意図が感じられました。もっとも、日本の陰は全くありませんでしたが。
 日曜日は、朝からLombard St.という、よく写真で見かける急坂を通り、Coit Towerを見て(ただし、修復中でタワーそのものには登れず)、Fisherman's Wharf近くの埠頭からサンフランシスコ湾のクルーズをしました。素晴らしい快晴で、Golden Gate BridgeやAlcatraz島がよく見えました。船にはたくさんの東洋系の人々が乗船していましたが、どうもほとんどは中国系または朝鮮系のようで、このあたりも日本の陰の薄さが気になりました。
 午後は、主に家族への土産を買うためにshopping。普段やらないことをやるのは大変ですが(苦笑)、迷いつつも何とか買い込みました。実は、妻の洋服を、Westfirld Mallというショッピングモールで購入したのですが、私がモールを後にした数時間後に、何と発砲事件があったことを、翌日早朝に知りました。漠然と安全と思っていましたが、やっぱりアメリカですね。
 夜は、(発砲事件などつゆ知らず)モールのすぐ傍のKoleto'sというイタリアンレストランで夕食。ひとりだったからか厨房が一望できるカウンターに案内され、食事の間中、シェフたちの神業のような手さばきに感嘆していました。何しろ14個もあるガスコンロにフライパンを並べ、ふたりのシェフが同時並行でたくさんの料理を次から次へと作っていくのですから、圧巻です。私はザリガニとニラのようなものが入っており、レモンの香りがさわやかなタリアッテレと、Napaの赤ワインをいただきました。
 明日は、午前7時前にはホテルを出てSan Francisco International Airportに向かう予定です。
クルーズ船から金門橋を見上げる

目抜き通りのMarket St.を走るミュニメトロ

San Francisco観光

 14日(金)は、Kafatosさんがドライバーを務めてくださって、ゆったりと市内観光をしました。まずは徒歩で中華街へ。米国最大と言われるChina Townは、横浜の中華街と比べてみると、飲食店よりは物品販売店が多いように感じました。もちろん至るところで中国語が飛び交い、例えば「米国」は「美国」。従って、私たちがよく利用したBank of Americaは「美国銀行」と表記されていました。Chase Bankは「大通銀行」に、East West Bankは「華美銀行」に、Welth Fargo Bankは「富國銀行」に。音に着目して漢字を当てているようですが、よくわかりません。
 China Townのメインストリートを往復した後、レンタカーに乗ってドライブ(ちなみに、14日まではプログラム内ですので、国務省が費用を負担してくれました)。Market St.を南西方向に進み、ゲイの街として名高いCastro St.を通り(性の多様性を示す6色の旗が翻っていました)、Kafatosさんも懐かしいというJapan Town(日本街)へ。Japan Centerを中心に日本料理店など日本関係の店が集まっていました。書店には『進撃の巨人』最新12巻を宣伝するポスターがデカデカと貼ってありました(全部日本語)。
 昼食は、Kafatosさんが昔度々行ったという定食屋で。メニューはなぜか英語でしたが店員は日系の方で日本語で注文を。私はお好み焼きを、Kさんは天ぷらうどん、Uさんは天ぷら定食を、それぞれいただきました。Kafatosさんはサバの塩焼き定食をつつきながら、以前、地元紙の記者をしながら、今後どういう道に進もうかと悩んだ頃の話をしてくださいました。ちなみに、その後、通訳を目指して大学院に進学したそうです。
 昼食後は、Kafatosさんが住んでいたPacific Heightsを抜けると、目の前にSan Francisco湾が。左に一部霧に包まれたGolden Gate Bridge(金門橋)が見えました。そこから信じられないほど急な坂道を下って金門橋を渡り、反対側の眺望ポイントに行きましたが、案の定というべきか赤い橋は霧の中。市街地が霧の向こうにぼおっと見えました。
 写真を撮った後、再び車に乗って金門橋を渡って戻り、港のあるFisherman's Wharfへ。ここで私たちのみ下車し、Kafatosさんはレンタカーを返却しに行きました。私たちは土産物屋を冷やかしながらぶらぶらと歩き、最後はケーブルカーでホテルに戻りました。
 ちなみにサンフランシスコ名物のケーブルカーは、わずか数分乗っても6ドル(約600円)。驚くほど高いのでKafatosさんに、「東京なら600円あれば立川駅まで行ってしまう」と言いましたところ、以前高円寺近くに住んでいたというKafatosさんは大笑いしながら、むしろ比較すべきは東京タワーのエレベーターだと教えてくれました。要するに市民の足ではなく、乗ること自体が観光だということでしょう。
 夜は、これも国務省(正確には委託を受けたMeridian)が予約してくれたYoshi'sという有名ジャズクラブで、ニューオーリンズの歌姫と言われるIrma Thomas(アーマ・トーマス)のコンサートを聴きました。ヴォーカルは初めてでしたが、圧倒的な歌唱力。320席と言われるYoshi'sはほぼ満席状態。どうも以前からのファンも少なくないようで、紙にリクエスト曲を書いては、直接Irmaに渡していました。コンサートは正味1時間10分ほどで、カリフォルニア巻きをつまみながら、Sonomaの白ワインを片手に聞き惚れました。
ゲイのシンボル旗。カストロ通りにて

パシフィック・ハイツからの眺め

2014年2月15日土曜日

San Franciscoでの訪問調査

 San Franciscoでの日程については、13日の朝まで知らされませんでしたが、フタを開けてみると、訪問調査は13日だけで、14日は丸々観光に当てられていることがわかりました。ありがたいような気もしますが、しかし、DCに到着したときの暫定的な予定に書かれていた、San FranciscoのDA office訪問やNarikaというアジアの女性を保護しているNGO訪問は無くなってしまい、残念な気もします。とはいえ、先方との調整がつかなかったとすればやむを得ません。

 13日(木)午前は、San Franciscoから高速道路を飛ばして1時間強のところにあるAntioch(アンティオック)という町の法律事務所訪問でした。言葉は悪いですが、ちょっと辺鄙なところにある事務所ですが、ハーグ条約事件に精通した男性弁護士さんと面談しました。お話の内容には特段目新しいものはありませんでしたが、逆に日本の状況をお話ししたところ、興味深く聞いておられました。
 午後は、University od California Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)に、Sudha ShettyさんとJeffrey Edlesonさんを訪ねました。実は、おふたりは3年前に日弁連が外務省等と共催したハーグ条約に関するシンポジウムにお招きし、主にDV(夫婦間暴力)の関係をお話いただきました。再会した際、幸いにも私のことを覚えてくださっており、そのためもあって話は弾みました。Shettyさんからは、日本は実施法のなかにきちんとDVについて定めるべきだったと指摘されました。また、米国における外国人女性が厳しい立場に置かれている現状もお話くださいました。確かに米国では外国人であっても優秀な弁護士を雇って裁判をすれば有利な結果を得られるかもしれない。しかし、現実には外国人女性は就労が容易でなく、経済的にも貧しく、言葉の壁もあり、結局、不利な判断をされることが少なくないとのことでした。Shettyさんは、ハーグ条約は必要なのだが、同時に女性を保護する対策をしなければならないと強調されていました。具体的には裁判官に対する教育の重要性を訴えられ、実際、裁判官向けのガイドブックなども書かれているとのことでした。
 これまでの訪問調査において、日本人母親も米国で監護権を争っても何とかなるのではないかと、やや楽観的な印象を持ってきましたが、昨日の法律事務所訪問に続き、Shettyさんらのお話を聞きますと、厳しい状況に変わりはないように感じられ、やや暗たんたる気分になりました。
 とはいえ、これで訪問調査は終了。夜は、別のグループのNさんも加わり、地元のプログラム責任者お勧めのステーキハウスで打ち上げをしました。

法律事務所訪問

 12日(水)は、基本的にSacramentoからSan Franciscoへの移動日でしたが、午前中はSacramento市郊外の法律事務所を訪問しました。家族法を専門にしている女性の弁護士で、お話を聞いていても、家族法実務に精通している印象でした。
 離婚と子どもの監護についていろいろなお話をうかがいましたが、率直な印象は、日本人の母親が子どもを連れて合法的に日本に戻るのは、かなり大変だというものでした。簡単に言えば、日本への帰国を認められるには、帰国後も米国の文化に触れられる環境を保障すること、米国人父親の面会交流が保障されること(特に交通手段)、そして、カリフォルニア州の裁判所で決めたことを守ることが必要です。最後の要件の担保のために、例えば500万円くらいの保証金を積まされたり、資産に担保を設定させられることがあるようです。これでは貧しい母親が要件を満たすことは容易でないように思われます。もっとも、弁護士さんは、それでも90年代と比べれば、要件が緩やかになったとおっしゃっていました。
 California州は、6か月間子どもが州内に住むと、California州が子の監護に関する争いについて管轄権をもつという法律があるようです(6か月未満でも、暫定的な命令を出すことは可能)。つまり、6か月間州内に住むと、上記のルールが適用されるようなのです。おそらくこのことを知っている日本人親はほとんどいないのではないかと思われます。
 それにしても、米国では離婚後の共同親権が一般的であるため、離婚後も紛争が尽きないように思われます。その点について尋ねたところ、明確な統計ではないが、多くの親は監護をめぐる紛争について裁判所を訪れるのは1回だが、子どもが成人になるまで2~3回訪れる親もいる、わずかだが常に紛争を抱えている親もいる、とのことでした。両親が合意すれば、裁判所が命令を出して、Parenting Coordinator(親業に関する調整者)を決めることができるそうです。PCは、両親が争っている場合に子どもの利益の観点から両親に代わって決めるそうです。もっとも、実際には利用は少ないようでした(弁護士さんも、1件、やっておられるようでしたが)。
 離婚後の共同親権は、日本でも論点になりつつありますが、一長一短と言えるでしょう。しかし、米国は、非監護親(多くの場合、父親)が子どもと関われることに大きな価値を見いだし、そのためにはある程度の副作用もやむを得ないと考えているように見えました。

Garbolino判事

 11日(火)は、午前がSacramentoのDA office(検事局)訪問、午後が元州地方裁判所判事のGarbolino氏の講義でした。
 DA officeについては、以前、国務省訪問時に、California州ではDA(地方検事)がLBP(残された親)に代わってハーグ条約事件の申立てをするという話を聞いていたため、その点を中心に調査したかったのですが、実際にはどうも間違いのようで、親の代理はしないということでした。
 DA officeでは、基本的に刑事的側面をやっているようですが、米国に子を連れ帰った親が協力的である限り、刑事的な対応はとらないそうです(刑事は最後の手段だと言っていました)。非協力的な場合は、裁判所にpinpoint orderとchild protection orderを申請します。前者は子どもを探す権限をDAに与えるもので、後者は子どもを見つけたときに保護する権限をDAに与えるものだそうです。
 子どもを探す場合の強力な武器は、Amber Alertです。これは1996年にテキサス州で始まり、カリフォルニア州では2002年からスタートした仕組みで、要するに警察が子どもが誰かに連れ去られると、さまざまな手段で周知し、市民に情報提供を呼びかけるものです。例えば、facebookやtwitterなどのSNS、街や高速道路の電光掲示板などで呼びかけます。実際、私たちが高速道路を走っているときも、大きな電光掲示板に、ある自動車の色とナンバーが表示されていました(もっとも、TVによれば、子どもが危険な状態にないことが明らかになったらしく、まもなく解除されました)。例えば、Sacramento周辺で子どもが行方不明になれば、まずはその周辺地域で周知をはかり、時間の経過とともに周知地域を拡大していくようです。日本で言えば公開捜査でしょうが、刑事事件になるかどうかに関わらず使用されることと、やり方が徹底している点で違いがあるように感じました。
 午後のGarbolino元判事の講義は、ハーグ条約に焦点をしぼったもので、大変参考になりました。事前にお送りしておいた質問については、まるで論文か何かのように詳細に文書で回答してくださり、これも非常にありがたいものでした。
 最も勉強になったのは、米国の監護権についてでした。監護権と面会交流権は異なりますが、面会交流権が充実すればするほど、実質的に監護権に近づくと考えられるとのことでした。具体的には、米国で一般的な、母親が基本的に監護をして、父親が2週間に1度、金曜日の夜から月曜日の朝まで一緒に過ごす程度なら、父親に監護権があるとは言わないが、父親と過ごす時間がもっと多くなれば、父親も監護権を有すると言えることになるというのです。もっとも、ハーグ条約事件においては国際的な実務にも目を配らなければならないことも指摘されました。
 また、米国ではrelocation(子どもの移動。moving away)をしようとする場合、基本的に非監護親に事前に通知しなければならず、非監護親は裁判で争うことができます。しかし、これは争えるだけで、居所指定に関して非監護親が拒否権を有しているわけではないため、relocationがあるからといって、非監護親に監護権があることにはならないだろう、とのことでした。このあたりは細かいことですが、ハーグ条約の実務においては大変参考になるお話でした。
 
 

法廷傍聴

 10日(月)は、California State Sperior Court(カリフォルニア州地方裁判所)のFamily Law Division(家族法部)で法廷傍聴。裁判官の厚意で監護をめぐる15件ほどのケースの法廷傍聴をさせていただきました。私は、以前、Minneapolisでも家族法に関する事件を傍聴しましたが、ある程度時間をかけて1ケースだけを処理していましたが、こちらは午前10時から正午までに、次から次へとケースを処理しており、慌ただしくも活気があるように感じました。
 事の性質上、ケースの詳述は避けますが、子どもの監護に関して専門家意見を待っているケース、当事者間で事実上の合意が成立し、それをcourt order(決定)にするために日程調整をしているケース、裁判官が弁護士のいない当事者に対し、弁護士に依頼した方がよいと勧めているケース、養育費を払っていないケースで、裁判官が本人に宣誓させた上で事情を話させたケース、母親が虐待したケースで、supervised visitation(監視付きの面会交流)のための立会人について議論していたケース、年長児童と父との交流がうまくいっていないケース、妻が子を連れて家を出たケースで、妻側の代理人がDVを訴えているのに対し、裁判官が証拠を提出するまでは暫定的に父と面会交流させる旨を決定したケース、専門家意見に基づいて面会交流の頻度を議論していたケースなどがありました。
 判事は、短い休憩時間にも丁寧に私たちの質問に答えてくださいました。離婚に至る流れはケースによってさまざまですが、基本的には別居の後、どちらかの親が離婚と、暫定的な監護に関する取り決めを求めるようです。裁判所は、legal custody(法的監護)とphysical custody(身上監護)、養育費や面会交流など、かなり細かく決めます。その後、離婚そのものについてhearing(審問)を開き、事実関係について争いがあればtrial(証人尋問)も行います。そして、最終的に離婚とその後の監護について決めます。ただ、子どもがいる離婚では、多くは共同親権になる関係上、離婚後も紛争に至るケースも少なくなく、従って監護に関する紛争は、別居から離婚に至る間に限られないとのことでした。

 午後は、裁判所の隣の建物にあるChild Protective Services(児童相談所)の訪問と、Pacific UniversityのProf. Myers(マイヤー教授)の訪問でした。
 CPSでは、通告があるとSocial Worker(児童福祉司)が家庭訪問をします(緊急なケースは直ちに、そうでもないケースは10日以内に)。多くのケースはneglect(監護の怠り)で、親や、10歳以上なら子どもも入れてTeam Dicision Making(援助方針会議)を実施します。会議は通常1回で、CPSが関わる必要すら認められないときはdismissal(却下)、CPSが関わる必要があるが深刻でないときはinformal supervision、深刻であり親権の停止等の必要があるときは裁判を、それぞれ行うようです。基本は、なるべく家族を壊さないように、外部のNGOなどが提供するプログラムを勧めるなど、informalな関わりを優先しますが、親が非協力的な場合などは裁判にするそうです。
 裁判の流れは、子どもを保護した後、48時間以内にdetention hearingが実施され、その後10日以内にjurisdiction hearingが実施されます。事実関係に争いがあればtrialに移行することもあります。虐待がはっきりすると、原則として6か月ごとにCPSのSWが報告書を提出し、それと親の主張に基づいて裁判所が評価をします。最終的に18か月経過してもなおreunification(再統合)ができなければ、親子関係を終了させた上で子どもは養子に出すか、養子縁組が難しいようであればguardian ad litem(後見人)が選任されることになります。なお、子どもが3歳未満の場合は、18か月も待たず、6か月で養子に出すこともあるそうです。再統合に至るのは、ざっくり25%だそうです。
 児童相談所が関与している間の親子の面会交流は、裁判所が決めるようでした。もちろん子どもの最善の利益の点から認めない場合もあるようですが、認める場合も、supervised visitationのほか、observed visitationというものもあり、前者は会話内容もすべて監視しますが、後者は離れたところから様子をうかがうだけで、何を話しているかは監視しないそうです。児童相談所の施設内で面会交流する場合もありますが、マクドナルドなどで実施する場合もあるそうです。

 Prof. MyersとのmeetingはPacific Universityのキャンパス内で行われました。教授は基本的に児童虐待における証明を専門としておられますが、ハーグ条約に関しては2件、LBP(残された親)の代理人をした経験があるとのことでした。いずれも無償でやってあげたそうですが、trial(証人尋問)も行うなど、とても時間がかかったようで、うち1件は300時間くらいかかったとのことでした。
 虐待等に関しては、教授は、「米国は刑事司法は比較的機能している。児童相談所も悪くはない。しかし、家庭裁判所は調査機能がないため問題が大きい。多くの母親たちは、虐待等の問題があっても、児童相談所や警察を頼るより、まず家庭裁判所に来てします。しかし、その立証ができず、かえって子どもを取り上げられてしまうのだ。家庭裁判所には最後に訪れるべきだ」とおっしゃっており、非常に印象的でした。

Sacramentoへ

 9日(日)、私たちはKafatosさんの運転するSUVでRenoからSacramentoに向かいました。道中は、当初雪が予想されましたが、幸いにも雨にとどまり、交通への影響はありませんでした。もっとも、やはり車窓からは何も見えず、「絶景」であるはずのInterstate 80(州間高速道路80号)を楽しむことはできませんでした。
 Renoはラスベガスと並ぶCasino(カジノ)の街と言われていますが、確かに中心部はけばけばしいネオンが目立ちました。カジノに頼るということは、基本的に豊かな産業がないということ。ネバダ州の苦しさを表していると感じました(ネバダ州は南部の方に核実験場も抱えており、これも収入源かもしれません)。ではカジノが賑わっているかというと、季節が悪かったからかもしれませんが、閑散としていました。私たちが宿泊したホテルも、玄関を入ってすぐ先にカジノのスペースが広がっていましたが、カジノに興じている人は数えるほどでした。
 短い滞在期間で治安についてコメントするのは難しいのですが、早朝にRenoの街をジョギングしていたら、酔っ払った男3人組に脅されました。走って逃げましたし、おそらく男たちもふざけていただけと思われましたが、他にもぶらぶらしている男がちらほらおり、いい印象はありませんでした。
 Kafatosさんによれば、米国は全体的には治安状態が改善しており、凶悪事件は減ってきているそうですが、経済的に貧しい地域は必ずしもそうとも言い難い印象でした(もっとも、Home Hospitalityにお邪魔したご家庭がある地域は、とても落ち着いた感じでした)。

 昼過ぎにはSacramentoに到着。三人でクレープ屋(Crapeville)で昼食を済ませ、Old Scramentoまで散歩しました。川のほとりに昔ながらの街並みが保存されており、のんびりした時間が流れていました。ネット情報によれば近くの鉄道博物館がお勧めとのことでしたので、立ち寄ってみましたが、ホントに面白かったです。往年の機関車が多数展示されていましたが「でかい!」。特に石油で走る機関車は、車輪だけで私の背丈を超えるくらい巨大で、圧倒的な存在感でした。
 夜は、皆おなかがいっぱいだったこともあって、自由行動に。私はKさんとZen Sushiという日本料理店でラーメンを食べました。1,000円を優に超える値段であるにもかかわらず、東京で言えばイトーヨーカ堂の「ポッポのラーメン」のレベルで悲しくなりました・・・。Kafatosさんによれば、LAには「いけてるラーメン」があるというのですが。でも、Zen Sushi自体はよい雰囲気の店で、寿司は結構美味しそうでした。
石油燃料で走る蒸気機関車

ラーメン at Zen Sushi(なぜか白菜が)