2014年2月17日月曜日

SF最後の週末

 Kさんは土曜日の朝に帰国の途につかれましたが、私とUさんは2日間ほど延泊し、SF観光を楽しみました。Uさんは準備がよく、しかも友人がおられたため、土曜日はNapaへワイン試飲の旅へ、日曜日は悪名高い元囚人の島、Alcatraz(アルカトラズ島)へ観光に行かれました。特にAlcatrazには私も行きたかったのですが、予約しようとしたら満席でした。Alcatrazは最低1週間前には予約しなければならないようです(繁忙期はもっと早く)。
 ということで、私の方は、土曜日は午前中はデスクワークをして、午後は別グループに参加していた新聞社のNさんと一緒に中華街を散策。夕方はいったんホテルに戻り、ひとりで中国系の新年祭を見物しました。
 旧暦の元旦は1月末だったと思われ、なぜ2月15日に新年祭が開かれたのか不明ですが、中国系企業や経済団体が中心となり、地元のさまざまな団体やMcDonald's、AT&Tなど大企業も加わって、盛大なパレードが行われました。パレードは、中華色ばかりかと思いきや、大学のブラスバンドなどもあり、人種も明らかに白人や黒人もおり(なかにはフィリピン系と思われる美女の集団がチャイナドレスに身を包み手を振るなど、ちょっと解せない場面もありました)、中国らしさを維持しつつも、SF市民みんなが祝ってくれていると印象づける意図が感じられました。もっとも、日本の陰は全くありませんでしたが。
 日曜日は、朝からLombard St.という、よく写真で見かける急坂を通り、Coit Towerを見て(ただし、修復中でタワーそのものには登れず)、Fisherman's Wharf近くの埠頭からサンフランシスコ湾のクルーズをしました。素晴らしい快晴で、Golden Gate BridgeやAlcatraz島がよく見えました。船にはたくさんの東洋系の人々が乗船していましたが、どうもほとんどは中国系または朝鮮系のようで、このあたりも日本の陰の薄さが気になりました。
 午後は、主に家族への土産を買うためにshopping。普段やらないことをやるのは大変ですが(苦笑)、迷いつつも何とか買い込みました。実は、妻の洋服を、Westfirld Mallというショッピングモールで購入したのですが、私がモールを後にした数時間後に、何と発砲事件があったことを、翌日早朝に知りました。漠然と安全と思っていましたが、やっぱりアメリカですね。
 夜は、(発砲事件などつゆ知らず)モールのすぐ傍のKoleto'sというイタリアンレストランで夕食。ひとりだったからか厨房が一望できるカウンターに案内され、食事の間中、シェフたちの神業のような手さばきに感嘆していました。何しろ14個もあるガスコンロにフライパンを並べ、ふたりのシェフが同時並行でたくさんの料理を次から次へと作っていくのですから、圧巻です。私はザリガニとニラのようなものが入っており、レモンの香りがさわやかなタリアッテレと、Napaの赤ワインをいただきました。
 明日は、午前7時前にはホテルを出てSan Francisco International Airportに向かう予定です。
クルーズ船から金門橋を見上げる

目抜き通りのMarket St.を走るミュニメトロ

San Francisco観光

 14日(金)は、Kafatosさんがドライバーを務めてくださって、ゆったりと市内観光をしました。まずは徒歩で中華街へ。米国最大と言われるChina Townは、横浜の中華街と比べてみると、飲食店よりは物品販売店が多いように感じました。もちろん至るところで中国語が飛び交い、例えば「米国」は「美国」。従って、私たちがよく利用したBank of Americaは「美国銀行」と表記されていました。Chase Bankは「大通銀行」に、East West Bankは「華美銀行」に、Welth Fargo Bankは「富國銀行」に。音に着目して漢字を当てているようですが、よくわかりません。
 China Townのメインストリートを往復した後、レンタカーに乗ってドライブ(ちなみに、14日まではプログラム内ですので、国務省が費用を負担してくれました)。Market St.を南西方向に進み、ゲイの街として名高いCastro St.を通り(性の多様性を示す6色の旗が翻っていました)、Kafatosさんも懐かしいというJapan Town(日本街)へ。Japan Centerを中心に日本料理店など日本関係の店が集まっていました。書店には『進撃の巨人』最新12巻を宣伝するポスターがデカデカと貼ってありました(全部日本語)。
 昼食は、Kafatosさんが昔度々行ったという定食屋で。メニューはなぜか英語でしたが店員は日系の方で日本語で注文を。私はお好み焼きを、Kさんは天ぷらうどん、Uさんは天ぷら定食を、それぞれいただきました。Kafatosさんはサバの塩焼き定食をつつきながら、以前、地元紙の記者をしながら、今後どういう道に進もうかと悩んだ頃の話をしてくださいました。ちなみに、その後、通訳を目指して大学院に進学したそうです。
 昼食後は、Kafatosさんが住んでいたPacific Heightsを抜けると、目の前にSan Francisco湾が。左に一部霧に包まれたGolden Gate Bridge(金門橋)が見えました。そこから信じられないほど急な坂道を下って金門橋を渡り、反対側の眺望ポイントに行きましたが、案の定というべきか赤い橋は霧の中。市街地が霧の向こうにぼおっと見えました。
 写真を撮った後、再び車に乗って金門橋を渡って戻り、港のあるFisherman's Wharfへ。ここで私たちのみ下車し、Kafatosさんはレンタカーを返却しに行きました。私たちは土産物屋を冷やかしながらぶらぶらと歩き、最後はケーブルカーでホテルに戻りました。
 ちなみにサンフランシスコ名物のケーブルカーは、わずか数分乗っても6ドル(約600円)。驚くほど高いのでKafatosさんに、「東京なら600円あれば立川駅まで行ってしまう」と言いましたところ、以前高円寺近くに住んでいたというKafatosさんは大笑いしながら、むしろ比較すべきは東京タワーのエレベーターだと教えてくれました。要するに市民の足ではなく、乗ること自体が観光だということでしょう。
 夜は、これも国務省(正確には委託を受けたMeridian)が予約してくれたYoshi'sという有名ジャズクラブで、ニューオーリンズの歌姫と言われるIrma Thomas(アーマ・トーマス)のコンサートを聴きました。ヴォーカルは初めてでしたが、圧倒的な歌唱力。320席と言われるYoshi'sはほぼ満席状態。どうも以前からのファンも少なくないようで、紙にリクエスト曲を書いては、直接Irmaに渡していました。コンサートは正味1時間10分ほどで、カリフォルニア巻きをつまみながら、Sonomaの白ワインを片手に聞き惚れました。
ゲイのシンボル旗。カストロ通りにて

パシフィック・ハイツからの眺め

2014年2月15日土曜日

San Franciscoでの訪問調査

 San Franciscoでの日程については、13日の朝まで知らされませんでしたが、フタを開けてみると、訪問調査は13日だけで、14日は丸々観光に当てられていることがわかりました。ありがたいような気もしますが、しかし、DCに到着したときの暫定的な予定に書かれていた、San FranciscoのDA office訪問やNarikaというアジアの女性を保護しているNGO訪問は無くなってしまい、残念な気もします。とはいえ、先方との調整がつかなかったとすればやむを得ません。

 13日(木)午前は、San Franciscoから高速道路を飛ばして1時間強のところにあるAntioch(アンティオック)という町の法律事務所訪問でした。言葉は悪いですが、ちょっと辺鄙なところにある事務所ですが、ハーグ条約事件に精通した男性弁護士さんと面談しました。お話の内容には特段目新しいものはありませんでしたが、逆に日本の状況をお話ししたところ、興味深く聞いておられました。
 午後は、University od California Berkeley(カリフォルニア大学バークレー校)に、Sudha ShettyさんとJeffrey Edlesonさんを訪ねました。実は、おふたりは3年前に日弁連が外務省等と共催したハーグ条約に関するシンポジウムにお招きし、主にDV(夫婦間暴力)の関係をお話いただきました。再会した際、幸いにも私のことを覚えてくださっており、そのためもあって話は弾みました。Shettyさんからは、日本は実施法のなかにきちんとDVについて定めるべきだったと指摘されました。また、米国における外国人女性が厳しい立場に置かれている現状もお話くださいました。確かに米国では外国人であっても優秀な弁護士を雇って裁判をすれば有利な結果を得られるかもしれない。しかし、現実には外国人女性は就労が容易でなく、経済的にも貧しく、言葉の壁もあり、結局、不利な判断をされることが少なくないとのことでした。Shettyさんは、ハーグ条約は必要なのだが、同時に女性を保護する対策をしなければならないと強調されていました。具体的には裁判官に対する教育の重要性を訴えられ、実際、裁判官向けのガイドブックなども書かれているとのことでした。
 これまでの訪問調査において、日本人母親も米国で監護権を争っても何とかなるのではないかと、やや楽観的な印象を持ってきましたが、昨日の法律事務所訪問に続き、Shettyさんらのお話を聞きますと、厳しい状況に変わりはないように感じられ、やや暗たんたる気分になりました。
 とはいえ、これで訪問調査は終了。夜は、別のグループのNさんも加わり、地元のプログラム責任者お勧めのステーキハウスで打ち上げをしました。

法律事務所訪問

 12日(水)は、基本的にSacramentoからSan Franciscoへの移動日でしたが、午前中はSacramento市郊外の法律事務所を訪問しました。家族法を専門にしている女性の弁護士で、お話を聞いていても、家族法実務に精通している印象でした。
 離婚と子どもの監護についていろいろなお話をうかがいましたが、率直な印象は、日本人の母親が子どもを連れて合法的に日本に戻るのは、かなり大変だというものでした。簡単に言えば、日本への帰国を認められるには、帰国後も米国の文化に触れられる環境を保障すること、米国人父親の面会交流が保障されること(特に交通手段)、そして、カリフォルニア州の裁判所で決めたことを守ることが必要です。最後の要件の担保のために、例えば500万円くらいの保証金を積まされたり、資産に担保を設定させられることがあるようです。これでは貧しい母親が要件を満たすことは容易でないように思われます。もっとも、弁護士さんは、それでも90年代と比べれば、要件が緩やかになったとおっしゃっていました。
 California州は、6か月間子どもが州内に住むと、California州が子の監護に関する争いについて管轄権をもつという法律があるようです(6か月未満でも、暫定的な命令を出すことは可能)。つまり、6か月間州内に住むと、上記のルールが適用されるようなのです。おそらくこのことを知っている日本人親はほとんどいないのではないかと思われます。
 それにしても、米国では離婚後の共同親権が一般的であるため、離婚後も紛争が尽きないように思われます。その点について尋ねたところ、明確な統計ではないが、多くの親は監護をめぐる紛争について裁判所を訪れるのは1回だが、子どもが成人になるまで2~3回訪れる親もいる、わずかだが常に紛争を抱えている親もいる、とのことでした。両親が合意すれば、裁判所が命令を出して、Parenting Coordinator(親業に関する調整者)を決めることができるそうです。PCは、両親が争っている場合に子どもの利益の観点から両親に代わって決めるそうです。もっとも、実際には利用は少ないようでした(弁護士さんも、1件、やっておられるようでしたが)。
 離婚後の共同親権は、日本でも論点になりつつありますが、一長一短と言えるでしょう。しかし、米国は、非監護親(多くの場合、父親)が子どもと関われることに大きな価値を見いだし、そのためにはある程度の副作用もやむを得ないと考えているように見えました。

Garbolino判事

 11日(火)は、午前がSacramentoのDA office(検事局)訪問、午後が元州地方裁判所判事のGarbolino氏の講義でした。
 DA officeについては、以前、国務省訪問時に、California州ではDA(地方検事)がLBP(残された親)に代わってハーグ条約事件の申立てをするという話を聞いていたため、その点を中心に調査したかったのですが、実際にはどうも間違いのようで、親の代理はしないということでした。
 DA officeでは、基本的に刑事的側面をやっているようですが、米国に子を連れ帰った親が協力的である限り、刑事的な対応はとらないそうです(刑事は最後の手段だと言っていました)。非協力的な場合は、裁判所にpinpoint orderとchild protection orderを申請します。前者は子どもを探す権限をDAに与えるもので、後者は子どもを見つけたときに保護する権限をDAに与えるものだそうです。
 子どもを探す場合の強力な武器は、Amber Alertです。これは1996年にテキサス州で始まり、カリフォルニア州では2002年からスタートした仕組みで、要するに警察が子どもが誰かに連れ去られると、さまざまな手段で周知し、市民に情報提供を呼びかけるものです。例えば、facebookやtwitterなどのSNS、街や高速道路の電光掲示板などで呼びかけます。実際、私たちが高速道路を走っているときも、大きな電光掲示板に、ある自動車の色とナンバーが表示されていました(もっとも、TVによれば、子どもが危険な状態にないことが明らかになったらしく、まもなく解除されました)。例えば、Sacramento周辺で子どもが行方不明になれば、まずはその周辺地域で周知をはかり、時間の経過とともに周知地域を拡大していくようです。日本で言えば公開捜査でしょうが、刑事事件になるかどうかに関わらず使用されることと、やり方が徹底している点で違いがあるように感じました。
 午後のGarbolino元判事の講義は、ハーグ条約に焦点をしぼったもので、大変参考になりました。事前にお送りしておいた質問については、まるで論文か何かのように詳細に文書で回答してくださり、これも非常にありがたいものでした。
 最も勉強になったのは、米国の監護権についてでした。監護権と面会交流権は異なりますが、面会交流権が充実すればするほど、実質的に監護権に近づくと考えられるとのことでした。具体的には、米国で一般的な、母親が基本的に監護をして、父親が2週間に1度、金曜日の夜から月曜日の朝まで一緒に過ごす程度なら、父親に監護権があるとは言わないが、父親と過ごす時間がもっと多くなれば、父親も監護権を有すると言えることになるというのです。もっとも、ハーグ条約事件においては国際的な実務にも目を配らなければならないことも指摘されました。
 また、米国ではrelocation(子どもの移動。moving away)をしようとする場合、基本的に非監護親に事前に通知しなければならず、非監護親は裁判で争うことができます。しかし、これは争えるだけで、居所指定に関して非監護親が拒否権を有しているわけではないため、relocationがあるからといって、非監護親に監護権があることにはならないだろう、とのことでした。このあたりは細かいことですが、ハーグ条約の実務においては大変参考になるお話でした。
 
 

法廷傍聴

 10日(月)は、California State Sperior Court(カリフォルニア州地方裁判所)のFamily Law Division(家族法部)で法廷傍聴。裁判官の厚意で監護をめぐる15件ほどのケースの法廷傍聴をさせていただきました。私は、以前、Minneapolisでも家族法に関する事件を傍聴しましたが、ある程度時間をかけて1ケースだけを処理していましたが、こちらは午前10時から正午までに、次から次へとケースを処理しており、慌ただしくも活気があるように感じました。
 事の性質上、ケースの詳述は避けますが、子どもの監護に関して専門家意見を待っているケース、当事者間で事実上の合意が成立し、それをcourt order(決定)にするために日程調整をしているケース、裁判官が弁護士のいない当事者に対し、弁護士に依頼した方がよいと勧めているケース、養育費を払っていないケースで、裁判官が本人に宣誓させた上で事情を話させたケース、母親が虐待したケースで、supervised visitation(監視付きの面会交流)のための立会人について議論していたケース、年長児童と父との交流がうまくいっていないケース、妻が子を連れて家を出たケースで、妻側の代理人がDVを訴えているのに対し、裁判官が証拠を提出するまでは暫定的に父と面会交流させる旨を決定したケース、専門家意見に基づいて面会交流の頻度を議論していたケースなどがありました。
 判事は、短い休憩時間にも丁寧に私たちの質問に答えてくださいました。離婚に至る流れはケースによってさまざまですが、基本的には別居の後、どちらかの親が離婚と、暫定的な監護に関する取り決めを求めるようです。裁判所は、legal custody(法的監護)とphysical custody(身上監護)、養育費や面会交流など、かなり細かく決めます。その後、離婚そのものについてhearing(審問)を開き、事実関係について争いがあればtrial(証人尋問)も行います。そして、最終的に離婚とその後の監護について決めます。ただ、子どもがいる離婚では、多くは共同親権になる関係上、離婚後も紛争に至るケースも少なくなく、従って監護に関する紛争は、別居から離婚に至る間に限られないとのことでした。

 午後は、裁判所の隣の建物にあるChild Protective Services(児童相談所)の訪問と、Pacific UniversityのProf. Myers(マイヤー教授)の訪問でした。
 CPSでは、通告があるとSocial Worker(児童福祉司)が家庭訪問をします(緊急なケースは直ちに、そうでもないケースは10日以内に)。多くのケースはneglect(監護の怠り)で、親や、10歳以上なら子どもも入れてTeam Dicision Making(援助方針会議)を実施します。会議は通常1回で、CPSが関わる必要すら認められないときはdismissal(却下)、CPSが関わる必要があるが深刻でないときはinformal supervision、深刻であり親権の停止等の必要があるときは裁判を、それぞれ行うようです。基本は、なるべく家族を壊さないように、外部のNGOなどが提供するプログラムを勧めるなど、informalな関わりを優先しますが、親が非協力的な場合などは裁判にするそうです。
 裁判の流れは、子どもを保護した後、48時間以内にdetention hearingが実施され、その後10日以内にjurisdiction hearingが実施されます。事実関係に争いがあればtrialに移行することもあります。虐待がはっきりすると、原則として6か月ごとにCPSのSWが報告書を提出し、それと親の主張に基づいて裁判所が評価をします。最終的に18か月経過してもなおreunification(再統合)ができなければ、親子関係を終了させた上で子どもは養子に出すか、養子縁組が難しいようであればguardian ad litem(後見人)が選任されることになります。なお、子どもが3歳未満の場合は、18か月も待たず、6か月で養子に出すこともあるそうです。再統合に至るのは、ざっくり25%だそうです。
 児童相談所が関与している間の親子の面会交流は、裁判所が決めるようでした。もちろん子どもの最善の利益の点から認めない場合もあるようですが、認める場合も、supervised visitationのほか、observed visitationというものもあり、前者は会話内容もすべて監視しますが、後者は離れたところから様子をうかがうだけで、何を話しているかは監視しないそうです。児童相談所の施設内で面会交流する場合もありますが、マクドナルドなどで実施する場合もあるそうです。

 Prof. MyersとのmeetingはPacific Universityのキャンパス内で行われました。教授は基本的に児童虐待における証明を専門としておられますが、ハーグ条約に関しては2件、LBP(残された親)の代理人をした経験があるとのことでした。いずれも無償でやってあげたそうですが、trial(証人尋問)も行うなど、とても時間がかかったようで、うち1件は300時間くらいかかったとのことでした。
 虐待等に関しては、教授は、「米国は刑事司法は比較的機能している。児童相談所も悪くはない。しかし、家庭裁判所は調査機能がないため問題が大きい。多くの母親たちは、虐待等の問題があっても、児童相談所や警察を頼るより、まず家庭裁判所に来てします。しかし、その立証ができず、かえって子どもを取り上げられてしまうのだ。家庭裁判所には最後に訪れるべきだ」とおっしゃっており、非常に印象的でした。

Sacramentoへ

 9日(日)、私たちはKafatosさんの運転するSUVでRenoからSacramentoに向かいました。道中は、当初雪が予想されましたが、幸いにも雨にとどまり、交通への影響はありませんでした。もっとも、やはり車窓からは何も見えず、「絶景」であるはずのInterstate 80(州間高速道路80号)を楽しむことはできませんでした。
 Renoはラスベガスと並ぶCasino(カジノ)の街と言われていますが、確かに中心部はけばけばしいネオンが目立ちました。カジノに頼るということは、基本的に豊かな産業がないということ。ネバダ州の苦しさを表していると感じました(ネバダ州は南部の方に核実験場も抱えており、これも収入源かもしれません)。ではカジノが賑わっているかというと、季節が悪かったからかもしれませんが、閑散としていました。私たちが宿泊したホテルも、玄関を入ってすぐ先にカジノのスペースが広がっていましたが、カジノに興じている人は数えるほどでした。
 短い滞在期間で治安についてコメントするのは難しいのですが、早朝にRenoの街をジョギングしていたら、酔っ払った男3人組に脅されました。走って逃げましたし、おそらく男たちもふざけていただけと思われましたが、他にもぶらぶらしている男がちらほらおり、いい印象はありませんでした。
 Kafatosさんによれば、米国は全体的には治安状態が改善しており、凶悪事件は減ってきているそうですが、経済的に貧しい地域は必ずしもそうとも言い難い印象でした(もっとも、Home Hospitalityにお邪魔したご家庭がある地域は、とても落ち着いた感じでした)。

 昼過ぎにはSacramentoに到着。三人でクレープ屋(Crapeville)で昼食を済ませ、Old Scramentoまで散歩しました。川のほとりに昔ながらの街並みが保存されており、のんびりした時間が流れていました。ネット情報によれば近くの鉄道博物館がお勧めとのことでしたので、立ち寄ってみましたが、ホントに面白かったです。往年の機関車が多数展示されていましたが「でかい!」。特に石油で走る機関車は、車輪だけで私の背丈を超えるくらい巨大で、圧倒的な存在感でした。
 夜は、皆おなかがいっぱいだったこともあって、自由行動に。私はKさんとZen Sushiという日本料理店でラーメンを食べました。1,000円を優に超える値段であるにもかかわらず、東京で言えばイトーヨーカ堂の「ポッポのラーメン」のレベルで悲しくなりました・・・。Kafatosさんによれば、LAには「いけてるラーメン」があるというのですが。でも、Zen Sushi自体はよい雰囲気の店で、寿司は結構美味しそうでした。
石油燃料で走る蒸気機関車

ラーメン at Zen Sushi(なぜか白菜が)

 

2014年2月12日水曜日

Virginia City

 8日(土)は、夜のHome Hospitality以外はオフでした。Renoに来たら定番はLake Tahoe(タホ湖)なのですが、悪天候のためおそらく行っても何も見えないと思われましたので、Kafatosさんの運転するSUVでVirginia City(バージニア・シティ)に行ってきました。
 Virginia Cityは、19世紀半ばに銀の鉱床が発見されたことから一攫千金を夢見る多くの男たちが集まり、実際に多数の億万長者を生み出した町です。数十年もすると鉱床は衰え、町も衰退しましたが、時を経て古き良き米国の街並みが見直され、今では多くの観光客が訪れる町に変貌しました。
 私たちは午前10時30分ころにRenoのSieraホテルを出発し、ガイガー・グレート・ロードを通ってVirginia Cityに向かいました。途中の景色はまさに絶景で、日本ではなかなか見られないスペクタクルでした。
 Virginia Cityに到着したのは午前11時30分ころ。基本的に一本道の両側に19世紀さながらの家々が並びます。時折雨に降られながら歩いていると、太ったおじさんが車から声をかけてきて、緑色の家を指さし、「あそこは自分の家だが、その三階にMark Twain(マーク・トウェイン)が住んでたんだ」などと教えてくれました。真偽の程は分かりませんが、Mark TwainがVirginia Cityに住んだことがあることは事実のようです。
 Cafe del Rioでメキシコ料理を食べて、また少し散策した後、帰途につきました。なお、途中、多くの民家が高さ2mほどの木製のフェンスに囲まれていることに気づき、「何かの侵入を防ごうとしているのでは?」、「まさかコヨーテでは?」、「いやマウンテン・ライオン(注・ピューマのこと)では?」などと話していましたが、答えはHome Hospitalityで判明しました。

 夜は、Rinoの隣町にあたるSparksのご家庭を訪問しました。Manchesterのお宅は元判事宅でしたが、こちらはより庶民的なお宅でした。たぶん10名を超えるご友人たちが集結し、私たちを歓待してくれました。楽しい時間を過ごすことができましたが、土地柄やや保守的な印象で、リベラルな元判事のご家庭とは、この点でも対照的でした。
 ところで、民家の木製フェンスですが、訪ねてみたところ、deer(鹿)やrabbit(うさぎ)の侵入を防いでいるそうです。鹿などは農作物を食い荒らすようです。確かに山にはわずかな低木と下草しかなく、乾燥した地域ですので、人間のつくる作物は格好のえさなのでしょう。
 ともかく、これで予定されていたHome Hospitalityはすべて終了。明日(9日)はSacramentoに移動です。
Virginia Cityへ向かう途中。雄大でした。

 

2014年2月11日火曜日

Washoe Tribal Court

 7日(金)の午後は、Washoe Tribal Court(ワショー部族裁判所)の訪問でした。実は、この訪問は秘かに楽しみにしていました。というのは、Native American(つまり、インディアン)の保留地を訪ねるのは初めてだったからです。
 米国において、インディアンは筆舌に尽くしがたい苦難の歴史を生きてきました。白人がアメリカ大陸に到着してから、インディアンは疫病や虐殺によりその95%が死に絶えたとも言われています。その後も、不毛で狭い土地を保留地として当てがわれ、インディアンたちはその地に強制移住させられました。現在でも貧困にあえぎ、その影響でアルコールや薬物の問題が深刻だと言われています。
 裁判所では、主にDV(夫婦間暴力)について状況をうかがいました。ワショー族の人口は約1,600人ですが、何と毎年300件のDV相談があるそうです。ある調査によれば米国の女性の約3分の1はDVの被害を受けているそうですが、それよりもはるかに高い頻度でDVが発生しているように思われます。
 ワショーでは、男性も参加してDV防止のキャンペーンを行っているようですが、高いときは75%に達する失業率のなか、家庭におけるストレスは簡単に軽減しません。また、ワショー族も苦難の歴史をたどってきた関係で、国に対する根強い不信感もあるとのことでした。
 被害に遭ったの女性の保護も容易でなく、保留地のなかにはなかなか逃げ場がないため、別の保留地に行くか、Renoのシェルターを使ったりするそうです。連邦政府からわずかな援助を得てワショー族のDV被害女性の支援をしているAngela Lemasさんは、「ワショー族の子どもたちは、昼間から飲んだくれて妻を殴っている家庭や、高校をドロップアウトしぶらぶらしている若者しか見ることなく育っていることから、よいモデルがないのだ」と難しさを指摘していました。そして、子どもたちが外の世界に目を開けるよう支援しているとのことでした。
 
 しかし、一方で、ワショー族の文化も大切にしているのでした。白人社会に紛れてしまえば楽なのかもしれませんが、ワショー族の文化と伝統を守りながら暴力や貧困、アルコール、薬物の問題と戦っていくという道を選択しているのでした。
 苦しい戦いのことを、英語でuphill battleと言います。直訳すると「上り坂での戦い」ですが、まさにAngelaさんたちの戦いはuphill battleにほかなりません。心から健闘を祈りつつ、裁判所を後にしました。
Washoe Tribal Courtの概観

法廷の中はワショー族の写真等が飾られていました。

2014年2月7日金曜日

Safe Embrace

 7日(金)の午前は、暴力を受けた女性を保護し、支援するNGO、"Safe Embrace"と、日本で言えば検察庁と自治体の法務を合体させたようなWashoe County District Attorney Officeを訪問しました。
 Safe Embraceについては、シェルターの場所を他言しないという誓約書に署名してからの訪問になりました。ということで、場所は言えませんが(もっとも、自動車で連れて行かれたので、そもそもどこか分かりません)、一般の住宅の中にありました。ベッドが14床あり、暴力の被害女性やその子どもたち(17歳までの男女)が入居可能だそうです。基本的には60日が最長ですが、実際には生き場所が見つからない女性も少なくなく、4~5か月滞在することもあるそうです。滞在中は入居者が交替で夕食の準備をしたり掃除をしたりします。滞在中、さまざまな情報提供をしたり、support group program(グループで行うセラピーやカウンセリング)を実施したり、Washoe Legal ServiceやNevada Legal ServiceなどのDV専門の法律事務所と連携して、保護命令など必要な裁判手続のサポートをします。
 シェルターを出た女性に対しては、Transitional Housing Programといって、6か月を限度に家賃を肩代わりしたり、自立支援や訪問などを行っているそうです。興味深かったのは、刑務所でもプログラムを提供していることでした。女性受刑者のほとんどにDVやabuse(虐待)の被害経験があるそうで、DVを受けつつ、報復で相手方にケガを負わせてしまったケースもあるそうでした。こういった女性受刑者に、empowerment(自立する力をつける)、心理学的な知識、出所後に必要となる情報提供などをセミナーのようなことをやっているそうです。
 私が、刑務所でのプログラムに参加する女性受刑者の動機は何かと尋ねたところ、案内してくれたVanessa Monroeさんは、「単に房から出たいのよ」と笑っていましたが、動機は何にせよ、プログラムを通してさまざまな情報に接することはとても貴重だと思われました。
 米国のDV政策に関して最も課題だと思う点を尋ねると、Monroeさんは、funding(財政)だと言うことでした。その点は日本でも同じかもしれません。

 その後に訪問したDA Office(検事局)では、主に検事として虐待した親の訴追について聞くことができました。
 刑事事件では、99%が有罪を認めるため、初期の起訴前手続(preliminary proceedints)を除くと、子どもが証言をすることはほとんどないとのことでした。もっとも、大陪審などpreliminary proceedingsでは50%程度の子どもが証言をするそうです。子どもが緊張したり怯えてしまい証言できなかった場合、10歳未満の子どもであって裁判所が認めれば、代わりに供述状況を録画したビデオを再生することも許されているそうです。逆に、10歳以上ですと、結局、断念せざるを得ないこともあるそうでした。
 一方、99%が有罪を認める背景には、plea bargaining(司法取引)があります。これについてもいろいろと尋ねることができました。子ども虐待は、Nevada州の法律では基本的に最も重いカテゴリーAまたはBとなっていますが、司法取引によってCまたはDの、より軽い罪に落としたり、複数の犯罪の一部を起訴しなかったりします。被告人の弁護士との間では、かなり激しいやりとりになることもあり、多くの場合数か月を要するようです(ただし、1年になることはないと言っていました)。ちなみに、司法取引に関して子どもに意見を問うことはないそうです(かえって、子どもに負担だろうということでした。ただ、もう一方の親の意見を聞くことはあるそうです)。司法取引の材料は、罪の軽減ですが、そのほかにも子どもへの接近禁止など、いろいろな条件を取り決めることがあるそうです。将来、被告人が司法取引で決めた条件に違反したときは、検事は被告人の身柄拘束を求めることができるそうです。
 刑務所でのプログラムについて尋ねてみましたが、Nevada州の刑務所では、子ども虐待の再犯防止プログラムがないわけではないが、不十分と考えているそうでした。全米で性犯罪者の60%以上が再犯する現状をみると、刑務所でのプログラムが十分とは考えにくいようでした。
 ところで、Washoe County(ワショー郡)では、Nevada州で初めて公式に認定された(credited)Children's Advocacy Center(子どもの代弁者センター)を設置する予定で、3月にはほぼ全部の手続が完了するそうです。そこに検事局や児童相談所も入り、さらにKids Cattage(虐待から保護された子どもが、緊急に保護される場所)も隣接させるそうです。今日のお話は、ほとんど刑事関係でしたが、District Attorney Officeは児童相談所の代理人もやっており、民事的に子どもを保護する手続も行っているそうです。
 District Attorney(検事局)が裁判所の建物のなかに入っているのは、わわわれ日本の弁護士からすると、裁判所の独立性に影響があるのではと懸念してしまいますが、裁判所の力が大きい米国では、あまり心配は要らないのでしょう。
 

2014年2月6日木曜日

いやはや大変な2日間でした

 当初の予定では、5日の午前11時にBostonを発つ便に乗ってSan Franciscoを経由し、同日夕方にはRenoに到着するはずでした。ところが・・・。
 5日のManchesterは未明から雪。降り方は特段激しくは感じられなかったのですが、寒いものですから融けません。どんどん積もり、あっという間に20cmくらいになってしまいました。前々日くらいからstorm(嵐)と予報されていた関係で、飛行機は4日の深夜に欠航が決定。今回のプログラムの責任を負うMeridianの決定は、5日午後3時過ぎの便でDenver, Coloradoに行く。→Denverで一泊。→6日午前5時の便でSan Franciscoに行く。→6日午前8時の便でRenoに行く、というものでした。
 ManchesterからBostonへのInterstate(州間高速道路)は、雪が積もっていたものの、州政府が融雪剤を撒きまくり、何とか走れる状態に。とはいえ、途中で渋滞したり、本当に大変でした。Boston発の便もやはり遅れ、結局、Denverでホテルに入ったのは午後9時過ぎ。でも、6日は午前2時45分に起床して支度をし、午前4時前には集合しなければなりません。近くのコンビニでサンドイッチとヨーグルト、フルーツを買って、これが夕食であり朝食となりました。Denverは、摂氏氷点下24度という、これまた強烈な寒さで、コートにマフラーを巻いていても、少し外にいるだけでみるみる熱を奪われました。Denver恐るべし。
 Uさんは、遅刻するわけにはいかないということでほとんど眠れず、Kさんは、前日から疲れで熱を出しており、私自身は体調はよいものの、さすがにくたくたでした。
 ところが、ハプニングはまだありました。早朝にDenverを発つ便に乗り込み、これでSan FranciscoでReno行きの便に乗り継げば、昼前にはRenoのホテルに到着できると安心したのも束の間。San Franciscoに到着してみると、何とReno行きの便が欠航に。Kafatosさんがいろいろと調べてくださったのですが、その先の便も満席で、どうしようもありません。
 Kafatosさんは、「じゃあ、私がレンタカーを借りて運転していきましょう」と。Interstate(州間高速道路)を飛ばせば4~5時間で着けるとのこと。やむを得ず、運転をお願いすることにしました。
 ということで、United航空の係員に「Reno行きの便が欠航になったので、預けていた荷物を返してください」と言ったところ、係員は、欠航のお詫びなど全く口にせず、「特別扱いになるので、荷物を渡すのに1時間くらいかかる」というのです。私たちは1時間、喫茶店で時間を潰し、改めて係員のところに行くと・・・、何と「4つの荷物のうち、1つは確保できたが、3つは次の便に乗ってRenoに行ってしまった。あっちで受け取ってほしい」というのです。
 Kafatosさんは、荷物が紛失するのを心配し、文字通り高速道路をぶっ飛ばし、Renoに到着したのは午後4時。Renoの空港の荷物受け取りカウンターに行くと、係員の部屋に私たちの荷物があるのが、ガラス越しに見えました。よかったと安堵したものの、係員がいません。別のところにいるUnited航空の係員に言うと、「自分は関係ない。待っていれば、そのうち来るだろう」。確かに、鍵が閉まったカウンターのガラスには、「忍耐強く待て」とあります(苦笑)。ただ、Bad luck(不運)はここまでで、しばらく待つとコーヒーを片手にした係員が現れ、荷物を引き渡してくれました。
 ということで、最終的には荷物も無事に戻り、Renoのホテルに到着しましたが、結局、6日に予定されていた訪問はすべてキャンセルに。Renoでの調査はもともと2日間しかなかったのに、たった1日になってしまいました。
 いやはや大変な2日間でしたが、Kafatosさんがいなければ、そもそもRenoにたどり着くことはなかったでしょう。トラブル続きのなかで、常にMeridianと連絡を取りながら最善を尽くしてくれたKafatosさんに心から感謝です。
Manchesterのホテルの部屋から見た球場

SacramentoからRenoへ向かう途中で

2014年2月5日水曜日

Home Hospitality

 Manchester滞在中の移動は、元連邦地裁判事が運転手を務めてくださいました。私たちにとって大変幸運だったのは、訪問先の多くが元判事をよく知っていて、通常以上に歓迎してくださったことでした。
 2月4日の午前中は、Devine Millimet法律事務所のPamela Peterson弁護士訪問でした。同業者ということで、とても楽しみにしていましたが、予想どおり充実した意見交換ができました。結論としては、incoming caseにしてもoutgoing caseにしても、外国の弁護士との連携がきわめて重要だということがわかりました。また、できればincoming caseにおいては、帰国前にtaking parentは現地の弁護士その他の資源に相談し、連携できるようにしておいたり、相談の痕跡を残しておく工夫が必要だということもわかりました。弁護士費用のお話はちょっと曖昧な言い方になりましたが、後に元判事が解説してくれたところでは、NH州の弁護士でも1時間あたり25,000円~30,000円、NYやBostonだと75,000円ということもある、しかし、心ある弁護士は常にお金を取るわけでもないので、事情を話し相談するとよいということでした。
 昼はいったんホテルで休憩した後、午後2時からCASAを訪問しました。これは裁判手続において子どもの代弁者を務めるボランティアの団体で、主に子どもの虐待事件で子どもの立場にたって調査し、児童相談所からも親からも独立して意見を述べるという役割を果たしています。裁判所から非常に信頼されているようで、親子分離をするケースではすべて選任されているそうです。ハーグ条約事件など監護に関する争いにおいても、選任されることがあるようでした(ただし、CASAではなく、別の団体)。当方は日本の手続代理人について説明したり、NGOの運営の難しさについて議論したりしました。
 その後、州都Concordへ向かい、New Hampshire Supreme Courtを訪問しました。何と最高裁判事のひとりが、私たちの運転手である元判事の同僚だったそうで、お二人の判事と親しくお話をすることができました。ハーグ条約事件はほとんどないようで、その点はあまり収穫はなかったものの、DVや高齢者虐待、子ども虐待についてNH州と日本の状況を議論しましたが、結局のところ、多くの分野で同様の壁にぶつかっていることが認識できました(もっとも、薬物の問題は、日本は米国ほど深刻ではないかもしれませんが)。なお、法廷に本物の暖炉があったことも印象的でした。
 夜は、Home Hospitalityということで、元判事の私邸を訪問し、夕食をご馳走になりました。友人の元弁護士夫妻も駆けつけてくれて、とても楽しい時間を過ごすことができました。元判事は民主党の支持者で、部屋にオバマ大統領の等身大の写真があったのに驚きました。料理は鮭のグリルとレンズ豆のソース、アスパラや青菜のソテー、スティック野菜でした。夕食後はチーズ、アイスクリーム、フルーツ、ジャスミン茶をご馳走になり、またおいしいCalifornia Wineもいただきました。当方は、私がトトロのハンカチ、Kさんが雷おこし、Uさんが沖縄のシーサーの置物をプレゼントしたところ、とても喜んでいただきました。
 これで、2日間のManchesterにおけるプログラムは終わり、いよいよ西海岸に旅立ちます。

2014年2月4日火曜日

YWCA Crisis Centerなど

 2月3日(月)は、午前中にManchesterにあるYWCAと、州都ConcordにあるFederal District Courtを訪問し、午後にDurhamにあるUniversity of New HampshireのCrimes Against Children Research Lab.を訪問しました。
 YWCAでは、DVを受けた女性の支援をしているCrisis Centerと、DVや子ども虐待などをしたことがある父親と子どもとの面会交流を支援するVisitation Centerを見学させていただきました。前者も興味深かったですが(警察と連携しつつ、同時に各々被害女性に対し守秘義務を負っている点や、被害女性に情報提供をしつつ、最終的にはその女性の意思を尊重する点など)、特にVisitation Centerは印象的でした。日本ですと、虐待をした親とは基本的に会わせないという発想になりそうですが、米国では監視付きで面会交流を認める傾向があります(もちろん、とても危険なケースでは認めません)。Visitation Centerは、母親が子どもを連れてくると、父親と一切会うことなく、監視付きで子どもと面会させる施設です。
 施設見学もさせていただきましたが、母親及び子どもと父親は、入ってくる経路も別になっており、父母が顔を合わせることはありません。部屋は3室あり、特に監視がない部屋、ビデオカメラによる監視がある部屋、職員が入室して監視する部屋が用意されていました。中には多数のおもちゃがあり、遊べるようになっていました。施設の方のお話では、面会時間は概ね1時間だそうです。
 素晴らしい施設でしたが、一方、危険とは隣り合わせ。昨年夏には、父親が銃を隠し持っており、子どもを殺害して自分も自殺したケースがあったそうです(日本でも昨年末に父親が子どもに灯油をかけて焼き殺し、自分も焼身自殺したケースがありました)。また、資金的に非常に厳しいらしく、特にあるところからの寄付が来年度は半分になるそうで、続けていけるかどうか検討中だそうです。企業に寄付を募っても、この施設を利用できる人数は限られるため、企業としても宣伝効果がなく、なかなか寄付が集まらないという悩みをおっしゃっていました。
 日本でも面会交流に対する支援の必要性が指摘されていますが、特に経済的に困難が伴うことは否定できません。
 Federal District Court(連邦地方裁判所)は、厳重なセキュリティのもとで見学させていただきました。印象的だったのは、すでに電子的に訴状を提出できるようになっていること、弁護士を頼みたくない人(or頼めない人)は、裁判所にある端末を使って判例等を調査し、訴状を作成できるようになっていることでした。また、Laplante判事ともお会いすることができました。判事は、ハーグ条約事件を取り扱ったのは1件だけだそうですが、そのときのエピソードなどをお話しくださいました。
 昼食の地中海風パスタは、大味でちょっといただけませんでしたが(苦笑)、午後は子ども虐待に関するリサーチで有名なDavad Finkelhor博士にお会いすることができました。率直に言って、ハーグ条約や博士の専門分野ではなく、私たちと何を話してよいのやらと思っておられたと思います。ただ、異文化に配慮した調停の重要性など、貴重なご示唆をいただきました。また、米国における子ども虐待政策の問題として、子どもの保護に関する基準がなく、裁判官によって判断にばらつきが生じていること、本来支援を必要としている(しかし、必ずしも希望しているわけではない)家庭に支援を届けられていないこと、膨大な通告の前に対応が手薄になっていることなどを挙げておられました。
 博士は9 月に子ども虐待防止世界会議@名古屋にいらっしゃいますが、心からお待ちしていることをお伝えしました。

2014年2月2日日曜日

Mancheseter, NH

 DCでの行程を終え、1日に空路Manchesterへ向かい、午後2時ころに宿泊先のHilton Garden Innに到着しました。そして、今日、2日(日)は初めて完全なフリーでした。午前中はひとりでManchesterの市街地を歩き回り、昼頃にホテル近くのMarket Basketという巨大スーパーマーケットに寄って昼食と明日の朝食を買い込み、ホテルに戻りました。
 Manchesterは、New Hampshire州最大の都市であるのみならず、ニューイングランド北部3州(NHに加え、Maine州とVermont州)の中でも最大の都市なのですが、人口はたった10万人。白人が多く、治安も良好で、自然の豊かな美しい地域です。街もこぢんまりとしており、繁華街と言えるのはElm Streetの一部のみですが、そのすぐ近くにも住宅街が広がります。昨日、空港から送ってくれたJakeによれば、子ども連れの家族にとっても住みやすい地域だそうです。
 もっとも、私が歩き回った限り、子どもたちが戸外で遊んでいる姿はほとんど見えませんでした。ひとつは寒くて、公園も雪で覆われているため、屋内で遊んでいたのかもしれません。
 典型的な東海岸の街並みを見て、いくつか気づくことがあります。例えば、日本、特に首都圏のように駅を中心にさまざまな商店街が広がる光景は見られません。少し離れたところに巨大なスーパーマーケット(あるいは、モール)があり、そこには広大な駐車場があって、皆、自動車で訪れます(もっとも、この点は日本の地方都市にも共通する特徴かもしれません)。
 店舗の構成も、興味深いところです。書店とか電気店、食料品店などはほとんど見られません。おそらく本や電機製品はインターネットで、食料品は巨大スーパーで購入するからでしょう。なぜか分かりませんが、洋品店もほとんどありません。一方、自動車関係の店舗はよく見かけます。皆、自動車に頼る生活をしていて、故障などすると直ちに必要になるのでしょう。
 午後は、本当はある原稿書きをしなければならなかったのですが、明日以降の訪問の準備に追われ、結局、原稿は一向に進みませんでした(某編集者様、ゴメンナサイ)。

2014年2月1日土曜日

チップ

 米国のチップは、その習慣のない日本人旅行者にとって常に悩みの種。飲食店でのコツをKafatosさんに尋ねました。
1 レストラン
 米国のウェイター、ウェイトレスは、給料だけでは生活できません。従ってチップは大変重要です。米国のレストランでは概ね15%~20%のチップを払うのが普通です。
 具体的には、伝票の数字のうち税金を除いた金額を見ます。この金額の15%~20%を、税金を含めた金額に上乗せします。例えば、税抜き価格が11.25ドルで税金が1.10ドル、税込み価格が12.35ドルだったとします。すると11.25ドルの20%は約2.20ドルになりますから、12.35ドルに2.20ドルを上乗せして14.55ドルを支払います。
 現金で払う場合、ぴったり14.55ドルがあれば、テーブルの伝票の上にそれを置いて店を出ます。
 しかし、お釣りがほしい場合は、まずチップ抜きの金額を支払うことにし、例えば、15ドルを支払います。その際、お釣り(change)を求めます。すると、店員は15ドルを持ち帰り、まもなく2.65ドルを持ってきてテーブルに置きます。その後、客は45セントを財布に戻し、チップとしてテーブルに2.2ドルを残して出ます。
 クレジットカードを使う場合は、ひとつのやり方は、伝票のチップ欄に2.20、合計欄に14.55と書いて、クレジットカードを決済します。これで問題ないのですが、実は店によっては数週間後にクレジットカード会社から清算金が届いた後にウェイターに払うところがある、つまり、すぐには払わないところがあるようなのです。そこで、もうひとつのやり方は、伝票のチップ欄には何も書かず、合計欄に12.35ドルと記載し、別に現金で2ドルを置いて出てくるというものです。この場合、15%~20%の間であれば、なるべく硬貨は置かず1ドル紙幣のみ置く方がよいそうです。
2 パブ
 典型的な米国のパブは、飲み物を注文して持ってきてもらったら、その都度支払います。その際、代金の20%程度を上乗せして支払います。
 通常、パブに入ると、(Can we)open a tab?と尋ねられるそうです。これは、注文するすべての料理の代金をまとめますかという意味で、つまり注文ごとに支払わずに最後に一括して支払うかという意味です。Noと言えば、上記のとおり注文の都度支払いますし、Yesと言えば、最後にクレジットカードで一括決済をすることになります(その場合、最後に20%程度のチップを支払います)。
 難しいですねぇ・・・。
AlexandriaのLe Pain Quotidienのオープンサンド

DCの治安など

 治安

 Washington, DCというと、結構治安が悪いと言われていましたが、案内をしてくれているKafatosさんによれば、最近は随分改善され、南の一部の区域を除き、安心して歩ける街になったそうです。Kafatosさんは子ども時代の一部をDCで過ごしたそうなのですが、当時は本当に黒人が多かったそうですが、再開発が進み、今は比率がかなり下がっているらしいです。要するに再開発で地価が上がり、家賃が上がり、低所得者の黒人が住みにくくなっているようです。治安が改善されたことは歓迎すべきことですが、背景に貧困層の排除があるとすると、何だか複雑な気持ちになります。

 融雪剤

 この冬は特に寒さが厳しく、DCの街も雪に覆われることがあるとはいえ、少なくとも私たちがいる間はせいぜい数センチくらいでした。ところが、DCの街は交通トラブルや転倒などを防ぐためか徹底的に融雪剤(塩化カルシウム)を撒いているらしく、歩道などにほとんど雪がありません。その代わり、撒かれた塩カルの影響で道路が真っ白で、さらにそれが自動車にも付着して、ほとんどの車が無残にも下手な化粧をしたような状況になっています。

 英語

 通訳のKafatosさんが同行してくれるため英語に困ることは少ないですが、しかしrestaurant(特にfastfoodのような安い店)の店員の言葉には困っています。早口で短い言葉を言われるのですが、ほぼ聴き取れないため「Pardon?」と聞き返しますが、再度言われて聴き取れるのも半分以下。情けない限りです。
 Kafatosさんからは、店員はヒスパニック系など低所得者が多く、彼らの方がきちんとした英語を話せないからだと慰められていますが、もちろんDCのビジネスマンは難なくコミュニケーションしているわけで・・・。この旅行の最後には、理解できるようになりたいものです。

 挨拶

 それでも、Kafatosさんと一緒に行動していると、アメリカ人がどういうふうにコミュニケーションしているのかが、よく理解できます。例えば、店に入って最初に店員に声をかけるときも、駅で係員に尋ねるときも、ほぼ100%、"Hi, how are you?"とか"How is it going?"などと話しかけます。その後、店員などが"good"とか"fine"などと応じ、同様に聞き返されます。これにkafatosさんは"Yeah, good"などと応じます。私は、こういったやりとりは、親しい間柄でのみ交わされるのかと思っていましたが、実は全く見ず知らずで、しかもその場限りの関係においても使われていることがよく分かりました。このやりとりを経ると、決まって店員は笑顔になり、その後のコミュニケーションがスムーズになります。
 それから、特に男性が"That's great"や"Sounds great"など、greatという単語を、予想を超えて非常によく使っていることもわかりました。greatは「偉大な」などという意味ですが、安いランチの場所を紹介されたような場合でも、ほぼgreatで返します。意訳すれば「いいね!」くらいの感じです。
 とまあ、いろいろと勉強になります。
 

Jazz in DC

 アメリカに来たら、ぜひ本場のJazzを聴きたい。その願いを国務省がかなえてくれました。アメリカ文化を知るために一定の予算を確保してくれているのですが、それを使ってJazzのLive Houseを予約してくれたのです。DCのLive Houseのなかでも老舗と言われるBlues Alley。Georgetownの裏路地にある、一流のJazz artistsが集うところです。
 この日のartistはCorey Harris。Jazz musicは幅広いのですが、Coreyのjazzは、ちょっとレゲエ的な明るいビートのbluesでした。Coreyのweb siteは、こちら。

http://www.corey-harris.com/

 公演は午後8時と午後10時の2回で、私たちは午後8時の方を予約してもらい、午後7時前には到着してワインを楽しみながらケイジャン料理(Louisiana州の伝統料理。同州のNew Orleansがjazzの発祥の地と言われています。私はエビを主体としたピラフ)をいただきました。開演10分前ころから、memberが楽器を調整しはじめ、午後8時を少し回った頃からおもむろにスタート。レゲエのリズムがスペース全体を包み、聴衆も何となく体を揺すり始めます。
 音楽や休みなく演奏され、否が応でも盛り上がりますが、聴衆は基本的に仕事帰りの中流階級の白人が多く、「はじける」感じはなく、落ち着いて楽しんでいる風でした。約1時間20分の公演はあっという間でしたが、終了後、飛び入りなのかどうかわかりませんが、アフリカ西部のマリから来たという老artistが、Coreyと一緒にAfrican musicを一曲演奏しました。
 
 ところで、演奏が始まる前、私たちが私たちのテーブルの椅子のひとつにコートなどを置いていたところ、ウェイトレスが来て「お預かりしますか」と言いました。私たちのテーブルは最前列だったため、演奏に邪魔なのかなとも思い「お願いします」と応じたのですが、公演終了後に引き取りに行くと1つあたり2ドルの預り料がかかることが判明。マフラーも1つに数えられたため合計10ドルを払うことになりました。「カネをとるなら、最初に説明してよ」と言いたいところですが、実際には説明されたけれど聴き取れなかった可能性もあり(涙)、渋々10ドルを支払いました。ま、勉強になりました。